ありようは委ねられているということについて

illy(イリィ)

世の中には、いろんな種類の人がいます。

「いろんな種類」とは、
「子供好きで、家を継ぐことだけが生き甲斐で、いずれ隠居するための貯蓄に一生懸命」
とか、
「お年寄りの話を聞くことが好きで、それ以外に自分に役立てられることはないと思っている」
みたいな、
要素の組み合わせのバラエティーのことです。

紅葉

ありとあらゆる種類の人たちがいます。
好き嫌いや、善悪や、高等下劣のベクトルが
正反対の組み合わせである人たちも。

そしてそのようなベクトルや組み合わせは、
毎瞬、移り変わっています。
ちょうどオーロラが毎瞬微妙に色を変えるように。

なので、
なにがいいとか悪いということも在りません。
だれかの生活の中に子育てというものがなく、
そのことについて無知であったとしても、
ほかの人がそれを責めることはお門違いというか、
意味のないことです。

そして、
相手にその理由があるわけでもありません。

だれかのなんらかの振る舞いに対する反応は、
人それぞれ、もっと言えば、
同じ人でも時によって異なります。

なにかに対して怒っている人に、
同情することもあれば、
まったく理解できないことや、
怒っているその人に対して怒りがわくこともあります。

観察者の中での反応は、
すべての観察者の反応と同じではありません。
観察者一人一人の思い込み、偏見、価値観などによって、
独自のものが形成されています。

そしてそれは、
外の世界を見るときだけでなく、
観察者自身の振る舞いに対しても反応します。

なので、
だれかのなんらかの振る舞いに対して赦せないと感じるとき、
自分が同じ振る舞いをすることを厳しく禁じています。
そして万一そのような振る舞いをすることがあれば、
深い自己嫌悪や、自責の念に駆られます。

だからわたしたちは、内観をして、
じぶんのなかにどんな規律があるか、どんな思い込みが在るかを、
じぶんの感情的反応を通じて発見し、
それを味わい、赦していきます。
(内観をしなさいと言っている訳ではないです)

赦しの瞬間は、
映画のような大げさなものではないことが多い気がします。
ごくしぜんなながれでやってきたような、
パズルを空いてるところにはめただけというような、
当たり前な感覚を感じることもあります。

それが穏やかさのひとつの形なのではないか、
平安、幸せと呼ばれている状態の
具体的な表れのひとつなのではないか。
そんな気もします。

みんな一人一人が正義から振る舞っています。
そのときのじぶんにとってベストな判断をしただけ。
そのときのじぶんにとっての楽を選んだだけ。
そのときのじぶんにとっての平和を選んだだけです。

だから絶対的な規律や、守られるべき規範などありません。
なにをしてもいいし、どうしようと当人の勝手です。

これは社会の中でなにをしても
社会的に赦されるという話ではありません。

自由をどのようなかたちで表現するかは、
かんぜんに一人一人の手に委ねられているということです。

(ぬ〜ん、じぶんが書いてる気がしない!)

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